一つずつ終えていく

まだ次は何も決まってはいないけど

私の中では全てがこれが最後だと

 

一つずつ脱ぎ捨て終わっていくことが

とても軽い。

 

一年に一度みんなが揃って

今年の目標なんかを発表したりする日で

いつもなら、感動していちいち涙ぐんだり

していることが

 

私の中ではすっかり冷めていることで

あまり、心には響かない。

 

けれど、これから頑張ろうとしている

若い子達をみていて、本当に頑張って欲しいなと

思ったりもする。

 

SNSから目に入ってくる情報は

まだすこーしちくりと刺さるトゲも

あったりはするけど

 

まあ、すぐに忘れるだろう。

全てが終わったら、関係者は全部

目なつないように、消したいと思う。

 

執着なんて何もない、

未練も1ミリもない。でも

このすこーしの痛みは、やっぱり傷ついた傷口が

まだ完全には閉じてないのだと感じたり。

 

早く終わらせたいなあ。

 

幼馴染

子供の頃からの友達の話し。

 

いつも、何となく一緒にいたけど

腹の立つことも多く、それでも幼馴染だから

お互い思いやってきた。

 

彼女は私を双子の片割れだと言う表現をするけれど

わたしは、その言葉には全くしっくりきていない。

私たちは全然違う。

 

大人になって、関係性は変わってきて

彼女は私を少しうとましく感じているようだし

私も彼女にイライラすることがある。

 

昨日もそんな日だった。

 

少し前から、ああ、離れる時なのかもな。

と言う予感もあり

風の噂で、調子よくないと聞いていたけれど

こちらから連絡はあえてしなかった。

 

彼女の方から連絡があり、やっぱり

あまり気持ちのいい返事をもできずに

 

数日後久しぶりに会うけれど

じっくり話すこともしたくない。

 

子供の頃から一生とはいえ

育ってきた環境も違う。

 

縁があればまた、気持ちよく会える日もあるだろう。

 

彼女には自分を誤魔化さず

幸せになって欲しいと思う。

正直な気持ち

なるべくなら、人のことを嫌いにならないほうがいい

嫌いな人はいない方がいい

 

立場的に、そんなことをどこかで思っていて

人のいいところを見つけるのが上手くなっていた。

それはそれで、良かったのだ。

 

でも、色んな全ての自分を認めてしまった今、

嫌いな奴は嫌い。

もともと私はそういうやつなのだ。

 

好きになるのに理由がないのと同じように

嫌いになるのも、無理に理由を見つける必要はなく

嫌なんやもん。

 

それだけでいいのかもしれない。

それが私。

 

誰かになぜそうなのか。

ということなんて、説明する必要もないし

口を開かなければ

私の心の中なんて、誰にもわからないのだから。

 

昨日、仕事をしながら

 

こいつ、やっぱり大っ嫌い!

 

と、思ったら、なんだかすごくおかしくなってきた。

 

子供か!!

 

と、突っ込みたくなるけれど

わたし、子供です。

 

大人の振る舞いをするのは、誰かに配慮するときだけで十分。

 

自分にまで、そんなことをする必要はない。

自分の心に正直なフィーリングで

決めてもいい。

 

それが、私なんだから。

変わらない人

昨日嫌いな人から電話があった。

 

愚痴だった。

彼女はいつも同じことを言っている。

 

傷ついた。と。

 

そんなのあなただけじゃない。

私も、ひどく傷つき、最後に

最大限に思い知らされて、手放す事にした。

 

彼女が手放せない本当の理由なんて知らない。

知ろうとも思わないし、どうでもいい。

決めるのは自分だし

 

今までからも、何度も、そんな話はしているけど

自分の思いを言いたいだけで

人の話なんて何にも聞いていない。

 

変わろうとしないから何も変わらず

何年経っても同じことを言っている。

 

よくどしいのだ。

 

自分が決めない以上は一生、そうやって

愚痴を言い続けるしかない。

 

いずれ、彼女にも合わなくて済む日がくる。

私は軽く、悲しみや苦しみから

卒業する。

楽しみな事

23年働いた場所でみんなと一緒に仕事をするのもあと、7日か。

 

2度と一緒に働きたくないし

まだ、会社から離れるわけではないから

顔を見る事もあったり

会議で会う事もあったりするけど

 

付き合いで食事をしたりすることは

格段に減った。

 

自分にこれは仕事だと言い聞かせて

自分から誘ってコミュニケーションをとるために

一緒に食事に行ったりすることは

もうない。

ご機嫌をうかがうことも、ない。

 

顔を見に行く事もなくなった。

 

無理していたあの頃よりも

ずいぶんストレスは減った。

 

やりたくない事、気が乗らないことは

もうしない。

最後の日まで適当に過ごして

心を穏やかに保つことだけは精一杯やる。

 

会社を買い取ってくれる人が決まったら

もう2度と会いたくない顔はいくつもある。

 

そうなれば、きっと私は誰とも会うことはないだろう。

いったい、いつから、こんなふうに思っていたのだろうか。

それほど自分を痛めつけ、ズタズタだったのだ。

 

きっと気がついた今が

ちょうどいい頃合いだったのだろう。

気がついてしまったら、自分を痛めつけることはできない。

 

最後になるときも、きっと私は

さよならも言わずにあっさりと去るのだろう。

 

みんなと一緒に働く最後の日を

カウントするたびに

嬉しくてワクワクしてくる。

 

なんの未練もない。少しだけ

ざまあみろ。

という、いやらしい気持ちが私をウキウキさせる。

 

決して被害者だったわけではないはずなのに。

 

思い出したくもない顔がいくつもある場所なんて

もういらない。

エネルギー

これだ!!

と決めた時に沸き起こる私のエネルギーは

わらながら凄まじい。

 

スピードも半端ないので

今日は休みという事で動けるだけ動いて

思ったよりも早くに、提出するもの第一弾を

送ることができた。

 

残りの書類の準備も思いのほか早く整いそうだ。

 

なんの根拠もないけど

上手くいくような気がとてもしていて

新しい道に直走っている時の自分が

なんか、好きだな。

 

と思える。

 

こうでなければいけないのだ。

私は誰がなんと言おうと

これでいいのだ!これがいいのだ!!

と思える道を信じて

突っ走っている時がなにより、幸せなのかもしれない。

 

それがあるから、ゆっくりとのんびりした時間も

幸せに感じることができる。

 

今日は幸せで充実した日だった。

理解できないし、しなくてもいいけど

同居している母のこと。

 

母は、変わっている人だ。

もしかしたら、発達障害の一種なのかもしれない。

 

人に喜んでもらうのが大好きなのはいいとして。

それを人に押し付ける。

 

一緒に暮らすのがとても苦痛だと感じながら生活することが多い。

 

それならなぜ別居しないのか。

 

母は、一人暮らしができないだろうと思う。

私が結婚していたころ、二人の夫は、

その時々に、同居だった。

そして、いずれもその時々、私はしんどかった。

 

母一人置いて、別居という選択肢はなかった。

共依存なのかもしれない。

私も、便利に使っているのだから。

 

母は、80歳になったけれどとにかくよく食べる。

この年ごろの人は、とにかくたくさん食べないといけない。

と思いこんでいる。

 

3食、早め早めにしっかり食べる。

 

私は、3食食べると必ず太るし、自分の食べるペースは

決めている。

外食が多いから、家では調整しないと、

食べすぎて、太ってしまうのと、便秘になるのだ。

 

毎日、ご飯はいらない。

私の分は作らないで。

 

といって出かけるけれど、

家に帰ったら必ず、私の分もてんこ盛りに用意されている。

 

そこでまた、私は、嫌なことを口に出さなければいけなくなる。

 

他人がきけばそれはもう、ありがたい話なんだろう。

親に、嫌な言葉を吐きつける自分が嫌になる。

 

じゃあ、体裁よく、ありがとう。といっておけばいい。

それはできない。

家でまで嘘をつくのは嫌だ。

 

母は、私のため。といって、毎日、私の嫌がることをする。

こういうのを毒親というのだろう。

 

私はもう、54歳なのだ。

いつまでも10代の娘のように、自分の所有物のような

扱いをするのはやめてほしい。

 

離れて暮らすのが一番良いのだろうけど。今更。

 

なるべく、一緒にいないことだ。

 

昨日も、近所に、恥ずかしいことをされて

また嫌な言葉を吐いてしまった。

 

仕事のことだけでも、整えるのに必死になっているのに

親に、じぶんの気持ちを

土足でぐちゃぐちゃにされるのは、嫌なものだ。

 

仕方ないとあきらめて、無視することだ。